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インタビュー 私の転機(前編) 理想のホスピスを目指して

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親友の死をきっかけに単身アメリカへ
理想のホスピス病棟を目指して

人生の転機に欠かせないものといえるのが「人との出会い」です。現在大学で教鞭をとる国際医療福祉大学小田原保健医療学部看護学科講師の高野文恵さんは、親友の死をきっかけにアメリカで終末期医療を学ぶなど、新しい道を切り開いてきました。今に至るまでの人との出会いや思いなどを2回にわたって伺います。

国際医療福祉大学
小田原保健医療学部 看護学科 成人看護学領域
講師 高野文恵さん

18歳で“強制自立”!?
看護助手をしながら看護師を目指す

―看護師を目指したきっかけを教えてください。

私の母は身体が弱く、1年のうち半分は入院生活を送っていたので、子どものころから病院や医療職は身近な存在でした。でも決定的だったのは、高校入学後、突然父に「18歳になったら自立してもらいます。家を出てください」と言われたことです。「いつまでもあると思うな、親と金」という感じでしょうか(笑)。
ただ、ごく普通の高校生だった私にとって、住む家と食事を失うことは大問題でした。そんなとき知り合いの看護師に、寮生活ができ、働きながら勉強ができる看護学校の話を聞きました。今ならインターネットでいろいろ情報が得られるのでしょうが、当時の情報ツールは“周囲の人”だけですから、私は「これしかない」と思ったのです。
高校卒業後、朝6時から昼まで病院で看護助手をし、午後は看護学校の准看護学科で学びました。その後は最短で看護師資格を取りたいと思い、川崎市立高等看護学院という公立の全日制看護学校に進みました。その看護学校は当時、学費がほぼ免除だったこともあって倍率がとても高く、受験勉強は大変でした。奨学金をもらっていたので卒業後4年間は働く予定でしたが、あるきっかけがあってアメリカに行くことを決め、全額返して1年9ヵ月で退職。単身アメリカに渡りました。

―アメリカに渡った理由は何だったのですか?

私が就職してすぐに、高校時代からの親友が急性骨髄性白血病で入院したのですが、個室隔離されていて、お見舞に行っても短い時間しか会えませんでした。彼女は日に日に痩せていき、ある朝ベッドが空になっていて、「今朝亡くなりました」と。本当にショックでした。看護師として毎日患者さんに接していたものの、当時の私にとって身近な人の死は完全に切り離れたものとなっていて、想像すらできないことでした。
彼女からもらった最期の手紙には「ものすごく孤独で、寂しい」と、切々とその思いが書かれていました。私は親友のことがずっと頭から離れず、「亡くなっていく人が寂しさを抱え、親しい人と連絡もとれないなんておかしい。これは医療の力ではどうにもできないことなのだろうか」と考えるようになりました。そんなとき、たまたま看護雑誌の海外のホスピス訪問の記事に目が止まり、「ホスピスをこの目で見たい、行きたい」と思ったのです。
何のつてもない私は、アメリカ、イギリス、フランスのホスピス約50ヵ所に「研修させてほしい」と手紙と経歴書を送りました。返事が来たのはわずか3通でしたが、それを頼りに渡米しました。

自分の人生を大切に自由に過ごす
アメリカでみたホスピスの現状

―ホスピスでの研修で印象に残っていることを教えてください。

アメリカで1年程度研修を受けることができましたが、実は渡米後、受け入れ可能と返事をいただいていた3施設は、いずれも担当者が変わっていて断られてしまったのです。1988年当時はバブル景気の最中で、アメリカではジャパンバッシングが激しく、その影響もあったのかもしれません。
研修先を失い、あてもなくニューヨークの片隅で途方に暮れていた私の目に飛び込んできたのが、あるオフィスの窓口にいた日本人スタッフの姿でした。
今思えば図々しいお願いでしたが、そのときは藁をも掴む思いでオフィスに飛び込み、事情を話しました。その方は20代前半で単身渡米した私をとても心配してくれ、在米の日本人医師会や地域の医師などに連絡をとってくれました。この出会いによって、当初の訪米目的だったホスピス研修がかなったのです。
アメリカでは、ボランティア運営や病院附属など、3施設のホスピスで研修を受けましたが、いずれのホスピスにもルールはなく、患者さんは自分のこれまでの人生、生活を大事に、自由に過ごしていました。なかでも印象的だったのは、エイズ患者さんのホスピスを訪れたときのことでした。当時、エイズは有効な薬もなく、偏見も多かった時代でした。ある患者さんが「私は貯金も仕事も友人もすべて失ってしまった。でもボランティアのみんなが新しい友人になってくれて、私がつらいときにはいつもそばにいてくれる」と語ってくれました。
日本は皆保険で医療の質も担保されているのに対し、アメリカでは、受けられる医療に格差があり、経済的な余裕がない人にとっては残酷な一面もあります。しかし、“終末期をどう過ごしたいか”という点においては、その答えは明確でした。

同じ志を持つ仲間とともに尽力した
政令都市初のホスピス病棟開設

―帰国後、アメリカで学んだことをどんなふうに活かしましたか?

帰国後に入職した川崎市立井田病院では、医師や看護師、コメディカル、事務職の有志と「ターミナルケアを考える会」を立ち上げ、月1回自主的な勉強会を開催しました。その後、がん患者家族の市議会議員の尽力もあって、市議会に勉強会資料を提出してホスピスの必要性を訴えたことが実り、95年、井田病院内の個室病棟のうち4床がモデル緩和ケア病床になりました。政令指定都市初のホスピスでした。
このモデル緩和ケア病床は、アメリカでみてきたホスピスと、当時国内にあった数少ないホスピスの視察を通じて得たものを活かし、既存の病院とは違うものにすることができました。「ターミナルケアを考える会」をともに立ち上げた故黒岩ゆかり医師をはじめ、強い思いを持つ人たちが集まったことで、新しいことにチャレンジができたと思っています。
98年には総合ケアセンター内に20床の緩和ケア病棟を開設することができ、2006年8月には日本医療機能評価の緩和ケア機能認定でも高い評価をいただきました。ただ、私自身はそこで燃え尽きてしまったところがあり、異動を機に病院を退職しました。
(次回に続く)

国際医療福祉大学小田原保健医療学部看護学科成人看護学領域
講師 高野文恵さん
高校卒業後、横浜市医師会看護専門学校で准看護師資格を取得。1987年、川崎市立高等看護学院卒業後、済生会神奈川県病院に入職。89年川崎市立井田病院に入職し、個室病棟に配属。96年神奈川県立看護教育大学校老年看護課程、翌97年修了。2000年神奈川県立看護教育大学校看護教育学科に入学し、翌01年修了。2007年株式会社TFTパワーコムの代表取締役に就任し、医療スタッフ教育などに携わる。2008年、社会福祉法人湘南福祉協会総合病院湘南病院に入職。2012年、東京医療保健大学大学院医療保健学研究科修士課程修了。2017年に国際医療福祉大学小田原保健医療学部講師に就任。

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